ライトノベルの文体は「共感」を志向する

http://d.hatena.ne.jp/tonbo/20070714/p1
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20070714/1184412696

この辺りを読んだ上でのメモ。というか、新井素子至上主義の私の考えなので、激しく偏っています。全然ラノベ読みじゃないし。


 そして“新井素子”の魅力には、「少女の星」であった頃から現在に至るまでに
一貫して変わらない背骨があります。(略)
 僭越ながらかつての一少女として述べさせて頂きますと、それは「共感力」では
ないかと思うのです。
  ――有川浩「『ハッピー・バースディ』(新井素子)解説」より

ライトノベルの文章の特性を一言で表すなら、それは「共感」だろう。ライトノベルは、「共感」に重きを置くことを特徴とする。

ライトノベル以前、小説の文章は「説明」と「描写」という二軸で評価された。そして後者の方がより高く評価された、と言ってよいだろう。すなわち、「説明よりも描写を」という標語が、一般的な小説における文章の価値観を表している。

これに対し、ライトノベルは「共感」という新たな軸を打ち出した。ライトノベルにおいては、説明力も描写力もさほど重要ではない。それよりも、読者に共感を覚えさせることができるか、という一点の方が、より重要視されているように思われる。

共感、というのは、説明や描写に比べると、ひどくあいまいで不安定な評価軸である。それは、読み手に大きく依存する。すなわち、読者対象層によって大きく変動することが避けられない。ある層が高く共感するものも、別の層はさして高く評価しない、ということもめずらしくはない。そのため、共感を評価軸とする層の中でも、個別の作品に対する評価は一定しないことが容易に予想される(しかしながら、同じ評価軸での評価を行う集団としてのアイデンティティーまでは、確立できるかもしれない)。

言い換えれば、説明や描写は、比較的広い層に対してアピールするものであるのに対し、共感はごく狭い層のみで評価され、それ以外の層ではアピールしない可能性がある。一般性、普遍性に欠けている。

とはいえ。共感という評価軸が安定せず、一般的な評価軸として機能しないことは、当の小説の作品群に対しては、そしてそのような小説のジャンルに対しては、特にデメリットではない。なぜなら、この作品群が目指すものは「エンターテインメント」であるためだ。エンターテインメントの評価は、原則として結果論でしかない。読者が楽しめる作品が良い作品であり、楽しめない作品は悪い作品である。その読者がごく一部の層にしか存在しなかったとしても、何も問題がない。自分以外の読者が楽しめるかどうかは、その読者には関係がないためである。



しかし、ここで気になるのは、そのようなライトノベルの「舞台」である。ライトノベルの多くは、読者の日常生活とは離れた、SF的な世界やミステリ的な世界を舞台としている。単純に共感を求めるのであれば、より読者が想像しやすい、読者の生活世界と地続きの環境を舞台とした方がよいのではないか。そう思うかもしれないが、実際にはそのようなライトノベルは少数派である。なぜか。

(続くかも。続かないかも。)