2008年に出版されたもっとも大切な一冊

メモ。
どうにも書けなくてずっと日和っていたのだけれど、これを書かないと先に進めないので、あきらめて書く。
2008年はぱかすか新刊本を買いまくった。ので、それなりに思い入れのある本はたくさんある。でも、再刊を含めてよいのであれば。この一冊に勝るものは、ない。


ひとめあなたに… (創元SF文庫)

ひとめあなたに… (創元SF文庫)


……もっとも、私が読んできた本の中でももっとも思い入れのある本であり、これに勝る本を読むことはおそらく一生ないと思っているので、当たり前と言えば当たり前。
それでも、長らく入手困難が続いていた本書が、装いもあらたに、そして文章にも手を入れて、新しく刊行されたことは、本当にうれしいことだった。
で、もちろん再読した。やはり、読めてよかった、の一言。


なぜこの本が大切な一冊なのか。それは、「本当に大切なこと」が書かれているから。そしてそれをエンターテインメントの枠組みの中で、完璧に処理しているから。

大切なことはいろいろある。だが、人が生きていく上で本当に、本当に大切なことは、二つだけだ。
一つは、「どう生きるか」である。そしてもう一つは、「どう死ぬか」、だ。
人生におけるこれ以外のありとあらゆる問題は、この二つの問題から派生してできた問題であり、いわば副次的な事柄に過ぎない。あえて言うなら、ありとあらゆる「問題」は、この二つの問いを考えなくて済むようにするための、問いの存在を隠蔽するためのものでもある。

新井素子は真正面からこの問いを描く。そのための装置として、彼女はSFを用いる。それがすなわち、「あと一週間で隕石により地球が滅ぶ」という状況設定。その状況の中で、すべての登場人物たちは、生と死に直面させられる。
人が人生に悩まずに済むのは、人生が適度に長いからだ。生と死に向かい合わずとも、人はそれなりに生きていける。そしてそのことにあまり深く思い悩まずに済んでいる。
しかし、それが一週間であれば。人は「死」を、そして「生」を正視せざるをえなくなる。
そして、人は壊れる。壊れる、という言葉がきついなら、歪む、でもかまわない。
この物語は、人生の終わりに直面したため、歪んでしまう4人の女性たちと、彼女たちを見つめ、もちろん自身も歪みつつも、彼女たちとすれ違う1人の女性の物語である。

上の2つの問いに対し、さらに根源的な問いがある。すなわち、「人生に意味はあるのか」、である。

 では。生きてきた意味って、何だろう。

しかしながら、新井素子の小説においては、この問いにはほとんど意味がないものとして扱われる。なぜなら、彼女の小説において、この答えにはほぼ必ず同じ答えが与えられてしまうためである。すなわち、「意味は、ない」。人生に意味はない。どう生きようとも、どう死のうとも、意味などない。その徹底的な、諦念にも似た確信が、彼女の物語を支えている。
もっとも、この作品においては、当然の認識である。あと一週間で、ありとあらゆる人が死に絶えようとしているのに、個人の生の意味などあるだろうか? それまでに築き上げたもの、それまでの振る舞いの結果起こった事象が全て無に帰すというのに、そこに何かしらの意味を見出すことが出来るだろうか?
もちろん、それでも「意味がある」と信じることはできる。が、それを支える論理的根拠などない。ありうるわけがない。

なお、新井素子は、「人生」すなわち「ある人間の生」を、「人類の生」に置換して考えようとする。物語のはじまりにおいて、主人公、圭子の恋人である朗がガンであることが明かされる。ここではよくある難病ものにすぎない。しかし、そのすぐあとに、世界全体がまもなく滅ぶことが明かされる。ここで人間の死と、人類の死とが対比される。そして個人の生を見つめる物語は、人類の生、すなわち人類の始まりと終わりにまでいったん拡大されてから、また再び個人に還っていく。このような操作を行うことが、彼女をSF作家たらしめている。

このようなテーマを描くにも関わらず、新井素子は、徹頭徹尾、エンターテインメントに徹している。

彼女が書く物語の特徴の一つに、「ほのめかし」のようなレトリックの極端な排除が挙げられる。彼女は、書き過ぎてしまっているように見えてしまうくらい、書く。それはおそらく、分かりやすさ、伝わりやすさを過度に重んじているためだろう。そのため、説明がくどく感じられたり、作品の表現が浅く感じられたりすることもある。

しかし。新井素子が勝負したいところは、もとよりそこではない。文芸作品としての美しさよりも、どのような物語を、どのような語り手が、どのように語るのか、そしてそれを読者にどう伝えるのか、重きが置かれるのはあくまでそのレベルである。とにかく、ページは多くの読者にめくられなければ意味がない。おそらくはデビュー前、友人たちの間で自分の原稿を回覧させていたころから、彼女にとってはそれが至極当然の責務と感じていただろう。そして商業作家となった今でも、彼女はそれを守り続けている。もちろん、彼女の作品は、単に子供向きなだけではない。『ひとめあなたに…』の最初の話、男の妻と、男の不倫相手の女との対話の、いやらしさ、醜さ、残酷さは、尋常ではない。

新井素子の作品に感じられる「みもふたもなさ」は、『ひとめあなたに…』における二つめの物語、坂本真理の話にも感じられる。幼少期のころ、ごっこ遊びとして、スコップをうさぎに見立ててはしゃぐ子供たちのなかで、真理だけがそのような見立てを理解することができず、足をひそめて近づこうとする友人たちを尻目にずかずか歩いてスコップを握ってしまい、場をしらけさせてしまう。それはどこか、新井素子本人の創作態度を彷彿とさせるところがある。エンターテインメントであることを重んじてしまうために、作品としての完成度を重んじる人々を尻目に、新井素子はとにかく読者をつかもうとし、どこかしらけた空気を作ってしまう。本人にはそのような心づもりはないとしても。

(続く、かも)