人生はツールではない、というかなんというか

メモの続き。さらに混沌とした書き方になってますが。

大学のころ、哲学のレポートを書いた(実は友人の代理で。なんかおごってもらった気がする)。与えられたテーマは忘れてしまったけれど、書いたレポートの要旨は、「一生ベッドで寝たきりだけど薬で人工的に快楽や満足を与えられることが可能だったとして(イーガン『しあわせの理由』みたいな感じ? もちろんそのころはイーガンは未読でしたが)、その人生は幸せか?」とかいうことだった。

そのレポートはわりと気楽に書いたのだが、どういうわけかよい評価をもらって、優秀者のリストに名前が載っていたらしい(友人の名前が)。そのときはなぜそれが評価されたのか判らなかったのだけれど、今にして思えば、そのような問題設定は目新しくはないにせよ、哲学として思考するに値する問題設定だったのだろう。そこが評価されたのではないかと思う。

例えば「水のような心」を人口的に得られる、中毒性のない薬があるのなら、GTDは不要になるのだろうか。仕事についてはそういう面もあるかもしれない。要するに仕事を能率的にこなすことができる薬なのだから。では、それをプライベートも含めて、四六時中使いたいだろうか?(もちろん副作用もないか、無視できるくらいに小さいとして)

物事を目的と手段にわけるとして、手段に対してGTDを適用するのはよくわかる。GTDは、管理対象を手段として管理するための、これもまた手段の一つであるとも言える。しかしそれは、対象を目的ではなく手段にしてしまうことにならないだろうか。もちろん手段にしたからといって問題があるわけではない。しかし、そうであれば、すべてをGTDなどで管理しようとすると、すべてが手段になってしまうのではないだろうか。たとえば人生そのものがとか。しかしそれは何のための手段なのか?

なんというか、みんなそんなに「やりたいこと」「やるべきこと」があるのだろうか。あなたのその「やりたいこと」はどのようにして選ばれたのか。それには確たる根拠があるのか。そのやりたいことができなくなってしまえば、あなたの人生は意味がなくなったり減ったりするのだろうか。もし減るわけではないとしたら、それをやるためにわざわざツールを使ってまでやる必要はあるのか。他の行為ではなくその行為を選択しようとするのはなぜか。

……行為の意味。基本的には古くからある、ありきたりの問いのバリアントなのだろう。たとえばトーマス・マン『幻滅』とか。あらゆる行為について「だからどうしたというのだ?」という醒めた感覚は決して消えることはない。

(私の駆動の源は新井素子で、素子さんはその極限では人生の意味を否定しちゃったりするので、私自身にもどうにもネガティブなところがあります。そういえば素子さんはマンが好きで、赤川次郎も『ひとめあなたに……』の解説で、素子さんにはマンに似ているところがあると指摘してたっけ。ついでに言うと、素子さんがドイツ文学を専攻したのはマンを原書で読むために、とか言ってたけれど、実際にはぜんぜん読めてなさそうだったりすることも、選択における目的の根拠とその根源性を考える上で趣き深い。)

……こういう考えは、たとえば小説の形で書くべきなのかも。最近書いてないし。やはり今年の目標は「短編を書く」にするべきか(あ、いえ、依頼されてる原稿は原稿でちゃんと書くつもりですんでよろしくです>関係者のみなさま)。

しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)

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トオマス・マン短篇集 (岩波文庫 赤 433-4)

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