今年のここしばらくの目標、のための谷山浩子小論

今年の目標を書こうとしたら、そこからどんどん遡行をはじめて、収拾がつかなくなったというか、そもそも目標はどうでもいい感じになってしまいました。が、せっかくなのでとりあえず書き残しておきます。以下、敬称略。

図式的に(やや乱暴に)まとめてしまうと、90年代の谷山浩子の核心は、『王国』から『銀のたてがみ』へと至る経路の中に象徴されていたと言えるでしょう。同様に、ゼロ年代谷山浩子の核心は、『ゆりかごの歌』を経て『よその子』に至る回路の中に象徴されるのだと言えます。

『王国』での「輝く偽りの」幸福を育んでいた「きみとぼくだけがまっすぐに映る」歪んだ王国=空間は、80年代から90年代にかけてのバブル期の社会=セカイの戯画であり、そしてそこへの執着は「世界へと続く通路を閉ざせ すべて」という閉鎖の欲望に結びついていました。その停滞を乗り越え、その先へと進むために、『銀の風のたてがみ』では「無人の荒野」に「ぼく」を立たせ、「ぼくを呼ぶ きみの声が確かに聞こえてくる」と「まだ見ぬきみ」へと希望を託したのでした。

一方、ゼロ年代には偽りの希望すらなく、端的に過酷な現実が立ち現れていました。その現実のうち、特に9.11の衝撃から、谷山浩子が歌ったのが『ゆりかごの歌』です。はじめて比喩ではない言葉として「殺す」ということを使った、という(うろおぼえ)谷山浩子自身の言葉が何より印象的で、それを中和するために配置されたという『学びの雨』や『かたつむりの歌を追いかけて』では覆い隠しきれない「闇」が、その歌には込められていました。
しかし、次のアルバムの冒頭の一曲、『よその子』は、その闇に対し正面から対峙し、希望をうたいあげるものでした。谷山浩子の歌の中でも最長の部類に入るこの曲は、ゼロ年代に対する谷山浩子の基本姿勢を表すものであり、その変奏曲でもある『神様』とともに、ゼロ年代を代表する一曲として位置付けられることになると思います。

それでもぼくは すべての家の
すべての人の幸せを
祈れるくらいに強い心を
強い心をぼくは持ちたい
谷山浩子『よその子』より)

「すべての人を幸せにする」のではなく、その「幸せを祈る」のですらなく、「幸せを祈れるくらいに強い心を持ちたい」という、どうにも間接的な希望の表明は、「人は人を殺せる/そう造られた」という『ゆりかごの歌』を踏まえなければいけない以上、ぎりぎりの表現でしょう。強調しておきたいのは、『よその子』の中ですら、この「ぼく」は「すべての家」から「早くお帰り/うちへお帰り」と締め出された挙句、「燃え上がる赤い夕焼け/街を焼き尽くせ/跡形もなく」という呪詛の暴発により、自分自身の心が焼き焦がされた後に出る言葉だという点です。その破壊衝動を踏まえた上での「強い心」への希望なのです。

同年行われた谷山浩子のコンサートのパンフレットでも、この曲の後半部分について、今までの谷山浩子の曲にはなかった展開であると語っていました。上記の引用は、この後半部分の冒頭にあたります。まさにその引用部分から、90年代とは違う、そしてもちろん70年代とも80年代とも違う、ゼロ年代谷山浩子が現れてきている。そう感じました。