高橋信頼さんとオープンソースの希望

先日、高橋信頼さんの通夜に参列し、最後のご挨拶をいたしました。


高橋信頼さんとは個人的なお付き合いがあったわけではないのですが、Rubyやその他のFLOSS方面のイベントに参加するたびに信頼さんの姿がありました。信頼さんが取材されている姿にはあまりに馴染んでいたため、先日のRubyWorld Conferenceや三鷹の中高生国際Rubyプログラミングコンテストでお見かけしなかったときに、信頼さんがいらっしゃらないことに違和感を感じていたくらいです。

そんなわけで、その人となりについては私自身はあまり語るところがないというか、もっと語るべき方がいらっしゃるはずです。そこで、信頼さんの書かれた記事を一読者として読んできた者として、先日の訃報以来改めて読み返していたITproの記事を紹介することで、故人を偲んでみたいと思います。


日経ITproはかなり古い記事までも記事検索で遡ることができるようで、はてなブックマークの件数表示からいってもURLを大事にしているようです(これは素晴らしいことですね)。その記事検索で遡れた古い記事はこの辺りです。


最後の「Linuxはどこまで定着したか」では、すでにLinuxについて興味を持たれていたことがわかります。とはいえ、どこまでその重要性を感じていたのか、というところまでは分かりません。


ITproの検索で「高橋信頼」で検索すると4181件もヒットするので(ただし、すべて本人が書かれたものではなく、名前が書かれているだけのものや、たまたまヒットしたものもあるようです)、全部を読むことはできないわけですが、googleはてブ等を使って読んでみたもののなかで、特に興味を引いた記事を3件ほどに絞るなら以下を挙げたいです。


3つにするつもりが4つになっていますが、最後の一つは個人的な思い入れも含めてご紹介したいので含めてみました。

信頼さんはライターではなく記者であり、多くの記事は取材記事なので、記者本人の意見やスタンスは出てこないのが普通です。が、この4つの記事にはとりわけ信頼さんの思いが強く反映されているように思います。

「“21世紀のプログラムを〜」では、ストレートに10代の若い方々に対する真摯なメッセージを打ち出しています。少し前の記事ですが、今の方がより切実さを増しているようにも感じられます。若い方ではない方も読むべきかと思いますが、それでもやはりこれらのメッセージを伝えるべきは、やはり “21世紀のプログラムを作る君たち”であるべき、という思いも持ちます。

個人が成し遂げられることはどんどん大きくなっている。常識は短期間で変わる。今貴重なものは、やがて過剰になる。日本市場を世界からへだててきた日本語の壁はなくなろうとしている。ネットの向こうにいる仲間を信じよう---「U-20プログラミング・コンテスト」という、20歳以下を対象にしたコンテストに参加した若い技術者たちに、伝えたかったことだ。

そして何より大事なのは、どんな仕事でもそうだけど、自分の仕事が好きだと、楽しいと思えることだと思う。審査会で自分たちの作品を誇らしげに、嬉しそうに話す君たちを見ていると、それについては何も言うことはないようだ。21世紀を担う技術者の中から、素晴らしい普及するソフトウエアやサービスがたくさん出てくることを願っている。そしてITproは、そんな君たちの役に立ち、力づけることができる場所でありたいと思う。


「学生とIT業界トップの〜」では、はっきりいってネガティブな反応を多くネット引き起こした元の記事やその反応について振り返っているのですが、信頼さん個人に注目すると、「コンピュータを作ることが本業ではなくなったメーカー」「記者は今まで多くの記事で何度も、無意識のうちに大手コンピュータ・メーカーという言葉を使い続けてきた。しかし、それはもう正しく実態を表してはいないのだ。」という、驚きに加えてある種の慨嘆のような痛切な一言です。日経コンピュータ、日経SYSTEMSを経てITpro、という信頼さんの歩みを踏まえるならば、「大手コンピューター・メーカー」の圧倒的な存在感とそこを頂点とする(あるいはしていた)業界構造の強さ、重さを知らないはずがないにも関わらず、それがすでにある種の「呪縛」となり、「“変われない日本”がIT産業にからみつき、ぬかるみのように足をすくう。」とまで書いています。

にも関わらず、何より大切なことはそこに光も見ていることでしょう。まつもとさん、ひがさん、生越さんだけではなく、元NEC代表取締役社長の西垣さんやCSKの有賀さんといったまさに「IT業界トップ」の方々の言葉も引いて、“変われない日本”にも変わりうる道があることを指摘しています。このポジティブな結論は、元記事の騒動を踏まえたネットの反応の数々を思い返してみると、あまり他には見られないものだったことを思い出します。


また、「「オープンソース的」〜」でも、こちらもまた梅田さんの発言はネガティブな反応を多数招いたのですが、その中でも前向きな議論につながる意見をつなぎあわせ、そこからポジティブな社会の変化につながる可能性を丁寧に引き出しています。当時の反応を考えると、悪く言うと偏った視点からのまとめであるとも言えなくはありません(もっとも、かずひこさんやひがさんによる、正面からの梅田さんの批判も正しく紹介しています)。が、「オープンソース的」(あるいは「バザールモデル的」)な社会のあり方の可能性を、まさにその語の混乱した用法を正していくプロセスの中に見出す、というのは、フェアであると同時に希望に満ちたものであるように感じます。

ApacheやBINDや、Linuxなどのオープンソース・ソフトウエアは、インターネットという世界そのものを作り上げていると言える。多くのオープンソース・ソフトウエアを生んだ、インターネットというコミュニケーション環境は、我々が住むこの現実の社会を変えることができるだろうか。記者は、変えることができると考えている一人である。


これを踏まえれば、「「ブレイク直前のLinux」を思い起こさせるRubyのマグマ 」での「記者がそう感じたのは、カンファレンスに集まった多くの若い技術者の熱気にあてられたせいだっただろうか。」とまで言うほどの「熱気」溢れる記事の背後にあったであろう興奮の正体も見えてきます。こちらについては当事者の一人であった私としては、その気持までは当時は汲み取れてはいなかったこともあり、記事にはやや意識のずれを感じるところもありました。が、今振り返ってみると、この記事でこのような扱いは、とても正しいものだったことを痛感します。



このように個別に取り上げていくのもきりがないので、気になった記事をトピックごとにまとめて列挙していきます。


○開発者


○法人・エンタープライズ


○海外

○東北復興


○コミュニティ


○その他


これだけ集めてみると、ひとつの方向性をはっきりと持たれていたことがわかります。時代の変革期の中で、個人としての日本のソフトウェア開発者が、オープンソースなどの場を通じてつながりあい、その活動と成果が世界と日本の社会を変えていく。その可能性の場に私たちは立ち会っている。「“21世紀のプログラムを作る君たち”に伝えたかったこと」は、まさにその信頼さんが持たれていた確固たる信念を要約したメッセージだったのでしょう。

そしてこれらを読むと、信頼さんはある種のビジョナリーのような人だったのではないか、という気もしてきます。それも自分で論を立てたり事業を起こしたりするのではなく、取材により事実を集め、それを世界に広めていくことにより、理想的な社会を生み出していこうとされていたのではないか。それは、残念ながら道半ばというところになってしまったと言わざるをえないですが、部分的にはそれが成功していたのでは、また未来に芽吹く可能性が残されているのでは、そこにつながる希望を遺されたのでは、と思っています。


最後に個人的な話になりますが、信頼さんとまとまった時間でお話ができたのは、このインタビューの場でした。そこでの屈託のない笑顔の写真(この撮影も信頼さんです)を見て、信頼さんが見ていた風景の中に私がこのような表情でいたのかなと思い、切なくも暖かい気持ちがしました。


信頼さん、どうもありがとうございました。