『論理哲学論考』での論理空間の理論を「『論考』の理論」みたいに言うのはゲーデル数化を「『不完全性定理』の理論」と言うくらいにミスリーディング

で、先日のRails勉強会の件に関連して。

『論考』の主眼は、基本的には「哲学とは何か」「哲学として考えるべきではないことは何か」とかいうことを論じることのはず。そのためには、哲学(の対象となる世界と言明)をモデリングしなくちゃならないわけで、そのための道具として論理空間とか真理関数とかが導入されたわけです。たぶん。これってつまり、不完全性定理で数学を論じるために数学の(数学による)モデリング=超数学の算術化の必要があり、そのための道具としてゲーデル数を開発したのと同じ構図じゃないかと。

そう考えると、例えば「『不完全性定理』に基づいてオブジェクトのシリアライズを行います」とか言われたら愕然としますよね。ほんとは単にゲーデル数と同じアイデアシリアライズにも使われているというだけなのに。そういうことです。

……という話とは別に、ウィトゲンシュタインの議論は電波がゆんゆんやんやんよんよんしやすいように思います。

それにしても、『論考』という著作は妖しい光を放っている。読む者を射抜き、立ちすくませ、うっとりさせる力を擁している。それはおそらくすばらしいことなのではあろうが、危険でもある。うっとりしながら哲学をすることはできない。
――岩波文庫論理哲学論考』訳者解説(野矢茂樹)より

なので、ウィトゲンシュタインの思想そのものを論じたいならともかく、単に彼が使った道具立てを使いたいだけなら、不用意に彼の名を持ち出さない方がいいんじゃないかなあ、と思う今日このごろです。