志の高い企業、ふつうの人

メモ。

志の高い人を雇いたがるのは、志の高い企業のするべきことなのだろうか。志の高い企業は、ふつうの志の人を雇い、高い志を持たせるような企業ではないだろうか。あるいは、ふつうの志の人を雇い、ふつうの志のまま、よい仕事をさせるような企業ではないだろうか。

優れた人を雇いたがるのはよいことなのだろうか。それは極論すれば、優れていないひとはどうでもいい、ということなのではないか? そのような企業で働きたいと思うだろうか? そのような企業で働きたいと思う人ばかりの社会で生きていたいと思えるだろうか?

ふつうの人が9時から6時まで(または10時から7時まで)、ふつうにプログラムを書いていればふつうに生活ができる、という世界の実現は困難なのだろうか。

今のソフトウェアエンジニアリングはふつうの人に辛すぎる。ここで言う「ふつうのひと」とは、たとえば「基本的に自分で本を買わない」「就業時間以外はプログラムを書かない」ようなひとだ。

自分で本を買って読むのはよいことだ。就業時間以外にコードを書くのもよいことだ。しかし、それは個人のたのしみのために行われるべきものであって、職業上の義務としてなされるべきものではない。それでは単なる時間外労働である。

業務のために、就業時間外にたくさん本を読め、と説く人々は、時間外労働を対価なしに(むしろ本代を払って)行え、と説いていることに他ならないはずだ。これを問題だと思わないのだろうか。私は非常に重大な問題だと思う。そのような行動をとらなければキャリアに支障を来たすというなら、それは業界そのものが深く病んでいるとしか思えない。

時間外労働を対価なしに行うひとだけが報われる社会を、そして何より、そのような社会を留保なしに肯定する人たちを、私は認めない。